入り口より入ると、花柄の壁の回廊になっている。途中に壁に丸い穴があいており、覗くと円筒の奥に映像が投影されている。筒の中にはたどたどしい男の歌声とピアノの音が響いている。回廊の先は広い空間になっており、正面の丸い月のような水面の映像は、朝夕の色に変化し、時折、そこを船が横切る。振り向いた側には、壁に大きな穴があり、室内では子どもの声による述懐の真と偽を問うモノローグとともに、様々な物語が映像で語られる。原光景における言語的他者による一見曖昧な視線や存在への審級と、その存在を支える人間の想起自体を扱った作品。 |
『いつも何かに見られている』2013年5月-6月、galerie16(京都)
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会場風景 photo: Harumi ITO (伊藤治美)
会場音響:子供のモノローグ Written by Akiko OKADA
僕は歩いていく。
足がもつれる。部屋の中を歩いていたはずなのに、
床が氷になっていた。氷がきしむ音がする。
僕は、寝にはいるとき、いつも白い何もないところへむかっていった。
お父さんがあの日、森へ向かっていったように。
ぼくはこっそりあとをつけていたんだ。
森でお父さんがほっている。つるはしをふりあげて。
ぶっていた?あれは何をしていたんだろ?
ぼくはとってもおおきなクマと眠るのがつねだった。
おかあさんはぼくがそのクマをぶっていたという、ぼくはそんなことしない。
ほんとうに、とてもかわいがっていたんだ。
でもおもいだすことができる。ぶっているのは女の子だ。
お母さんのいうことがほんとなら、ぼくはそのむかし女の子だったの?
ぼくはクマのぬいぐるみを大事にしてたっておかあさんが言ってた。
おんなのこはクマをぶっていた。クマは可愛がられていた?
おんなのこが僕でないのなら、ぼくはクマだったのかな。
じゃあぶたれたのはぼく?ひどいことをされたのに、どうしてみんな、ぼくをかこんでわらっていたの?それともそれは、すばらしいことだったの?
ふときがつくと、かべによく穴があいていて、だれかがみている。
いや、ちがう、ボクが部屋のかべの穴をのぞくと、
恋人同士がキスをしていたんだ。
みていたのはぼくだ。
ううん、くちべにをぬっていただけだっけ。
このへやはぼくのからだなんだ。
どこでもみわたせるふしぎなからだ。
ゆめからさめると、穴は消えちゃうんだ。だから、
夢の後で僕はいつでも窓をあける。
きみはどう?
ぼくはそうする。
なぜなら
夢のあいだじゅう
ずっと何かが僕を見ていた気がするから
まどをあける
そらがみえる
そらとうみがみえる
それ以外には、でも何もない。
それでも思う 空と海の間に
あのまなざしが漂っていたに違いない
ぼくはみつける。
飛んでいる あのまなざしを。
みつけたらすぐに
きえてしまうあのまなざしを。
会場配布テキスト
“ー岡田彩希子展に寄せてー”
精神分析のいわゆる「原場面=原光景」”
私たちの一人一人が、それぞれの歴史から できている。
私たちという 人間の生地は、私たちの視線が捉えてきた数々の
映像の織物であるはず。 そうだとすれば、私たちが生まれた時、
そこで待ち受けていた父母の目を、 私たちの視覚は捉えたはずなのだ。
私たちはいつも、自分の内面を遡るときに、
その記憶に辿り着けるという気持ちだ。ところが無意識を遡って見えてくる のは、
視ていたという記憶ではない。 岡田彩希子展において現れるのは、
中空に浮かんでいるかのような 他者の視線である。
私たちを何がかが待ち受けていた 原初の場で、
私たちはどんな目に 出会っていたのだろうか。
映像と無意識が、私たちを その場へと送り返す。
(新宮一成、精神医学者)