『私は、私の全ての器官で、あなたを愛す。』(2011)

東北大震災のあった3月11日以降に内省された、意識的でもあり、かつまた無意識的な喪失についての思念と、拾ったものとの生命の観念についての認識を省みるインスタレーション作品。会場にある小さなものは、それぞれ落ちていたもの、作家(岡田)の母の遺品、愛する人にあげたもので構成され、拾得期間は1998年にはじまっていることが外部資料で提示される。本来の場所から切り離されたものと対峙することで起こる、誰しもが幼少期に経験しえたであろうデペイズマンと、誰のものでもない存在という想起を、物から声をかけられるような、ひとつの生命の向き直りとして提示する試み。壁には、男女の性差をあいまいにした映像が投影される。暗闇の中、ペンライトに照らされて浮かび上がる、記憶を宿した品々はただ拾われるのを待っている。そのようなものを暗闇の中で見つめる鑑賞者は、真っ暗な空間装置の中で、主体の位相としてはバラバラにな器官として、拾得物とともに空間の全てになる。その全てを支えるものは他なる部分であり、器官はそれぞれに、世界の美しさと呼応する。わたしたち人間が男女の性別に、あるいは生命に、死に、拾われているのだという認識をインスタレーションしたもの。

2011年9月『私は、私のすべての器官で、あなたを愛す。』 個展、
ギャラリー16、京都

 

会場風景   photo: Harumi ITO (伊藤治美)

暗闇の中、ペンライトに照らされて浮かび上がる、 作家の記憶と愛着を宿した品々。 壁には、男女の性差をあいまいにした映像が投影される。 「我々は生命の側から見つめられている/男女の性別に拾われている」。 そんな認識の転換へと誘う哲学的インスタレーション。 ー沢田眉香子・著述業、京都新聞

 

会場配布コメント

コメント                             岡田彩希子

 

会場にある小さなものは、それぞれ落ちていたもの、母の遺品、愛する人にあげたもので構成されています。

 

拾得期間は1998年にはじまり、拾得地は各々、新潟、東京、京都、大阪、鳥取です。本来の場所から切り離されたそれらと出逢う時、そのたびに、一つの想起と出会っていました。

 

それは、ひとりで遊んでいた幼少のわたしが、外出先の活動の合間にみつけた落としもののことです。氷砂糖や本、色ガラスの破片、生きた大きな亀、忘れてしまったいろいろなもの。子どもにとってのそれらとの対峙の時は、どこかで遠く繋がりながら、所属の無い、なにものでもない自分の不思議をみつめる瞬間でした。

 

3月11日以降、わたしたちは意識的に無意識的に、喪失についての思念に一度ならずとも向き合っています。この事態を、生命がほんのすぐそばでこちら側を向いて見つめ返している、という視線の感触として感じることがあります。その生命からのまなざしは、生きているわたし自身の生命からのものでもあると考えます。

 

生きている私があなたを愛するとき、「私」はバラバラにな器官として、全てになる。その全てを支えるものは他なる部分であり、器官はそれぞれに、世界の美しさと呼応する。わたしたちは男女の性別に、あるいは生命に、死に、拾われているのだという思いとともに、2011年、そのようなことを考えています。

 

 

 

すべてとは何か?                   新宮一成(精神医学者)

 

岡田彩希子展『私は、私のすべての器官で、あなたを愛す。』の空間に足を踏み入れたとたん、人は己の記憶の暗闇を想うだろう。

 

しかし、小さな光に照らし出された点在するオブジェは、それぞれが記憶の塊のようである。記憶はじつはこんな落とし物であったのではないか。私の古い精神の空間に、誰がそれらを落としたのだろう。しかし私にはそれは拾えない。それを拾ったのは他者だ。

 

してみると、私は別の人の目で私という記憶たちを見ている。これらの塊は、すべてが私。それらは、映し出される文字から、他者のような「生命」の声をひたすら聞いている。作家は、落ちていたものと、母の遺品と、愛する人にあげたものとで、今回の空間を構成したという。精神分析でやって来る想起は、話す主体に関わるものだ。

 

しかしあるところまで来ると、想起の主体は自分ではなくなるかもしれない。実際、その主体が「生命」の環そのものとなり、自分は想起される落とし物としてそこに見出されるのみという剣呑な根源的事態へと、われわれはこの空間に乗って運び込まれていくのである。