『彼には熱がある』(2014)

不在の作家(岡田)からの問いかけの形式をとった国内外の研究者へのインタビューを、二つのリアプロジェクション映像によってインスタレーションとして作品化したもの。壁面には登れない階段が設置され、その上方には、崖の上でたじろぐ女性の素足が投射されている。インタビューされた「彼ら」は、発熱し最も苦しかった、あるいは、思い出深かった経験の回想を語る。口元の映像とそのディスクールを基盤に構成。インタビュー形式に精神分析的な条件を付帯することで、鑑賞者を分析者、もしくは転移関係の主体の位置に置くことを試みつつ、このメッセージの受け手を宙吊りにし、分散することで、ノンコンバセーショナルコンバセーションをインスタレーションとして現した作品。

『彼には熱がある』個展、2014年5月〜6月、galerie16(京都)

 

会場風景  Photo: Harumi ITO (伊藤 治美)

会場配布資料

作家コメント:岡田彩希子
この作品は、不在の作家からの問いかけとして、「彼ら」
の熱があったあときのディスクールを基盤に構成されています。

彼には熱がある。
誰しもトラブルを抱えたり、問題を持っていることがあります。
それは一つの打ち明け話となることもあります。
あるいはそれは、その彼がぽっかりと浮かぶ閉じられた経験という島で
彼ただ一人、取り残されて居たりする場所にもなりえます。
強いられなければ、誰に聞かれることもない行方知れずの場所です。

私は私不在の状態で、彼らの経験が暗闇に輝くのをみます。
もちろん、そのような条件において、
私の経験も同じように輝くのでしょう。

見上げた星を美しいと思う私たちの足もとにもまた、
輝く星があり、この内密な体験がみせるのはひとつのパラレルディスコースです。
それは一体、いかような関係を、あるいは言葉を発しているのでしょうか。

経験の暗闇を見上げたように、足もとにまなざしを投じ俯くように、
このノンコンバセーショナルコンバセーションを
インスタレーションしたいと思います。

岡田彩希子展に寄せて 「意識に直接与えられた熱」
新宮一成(精神医学)
哲学の考え方の中で、「意識に直接与えられたもの」という言い方は、私に向かって魅力を発散していたが、同時に疑問を抱かせるものだった。疑問というのは、「では意識は、与えられるものがやってくるのを待っていたのか?」あるいは、「そのものがくるまえに、意識はどうやって存在できていたのだろうか?」、また、「意識は、その直接性を知り、その知をたがいに他の意識に向かって表出できるのか?」というものだった。岡田彩希子展「彼には熱がある」は、この疑問に一つの応答を差し出している。

この作品では、作家が他者にカメラと質問を託し、彼女の知人、友人、また、会うはずであった人々に、“熱があったときの記憶”を訊ねていく。作品はこうして、発熱していた時の主体の曖昧な意識における、ごく個人的な体験に接近している。そういった<内密な語り>と、作家の応答への意志が、関係不在の関係を紡いでいる。
作品を見て聴いて、自分なりに答えが出た。「意識に直接与えられたもの」というのは、きっとこういうものなのだ ― 意識が何かから分かれて意識になったときに、もう片方の、意識にならずに残ったもの、それが、「意識に直接与えられたもの」であるはずだ。意識ができたとたんにそこにあったものが、「意識に直接与えられたもの」なのだ。私から出てきたのに、私の外から降りかかったもののように意識がそれを捉える、そういうものについての、それぞれの語りの密生、その密生の場が、この会場にあったからである。

最初の疑問に、この展覧会について語った作家の言葉が重ね合わせられる。<例えば熱があったときのことのように、誰も訊く事のない、ごく個人的な”語り得ない”意識は、私たちの関係性の中で、どのようにして存在しているのか、そして、自他の意識の境は、どのように交わらないでいるのか、また、わたしたちをわたしたちのままにする個別の体験の奇妙な美しさについて、考えています>。

意識に直接与えられた熱から、人は語らいを紡ぎだせる。しかも、それぞれの人だけのもの、それぞれの人だけに与えられた体験についての語らいである。だからその語らいは一風変わったものである。そしてそれでいて、それは人を普遍的な人間の条件のもとに投げ出す。

たがいに共通項をもたずに錯綜し合っても、そのまま話は続いていく。会話にはならなくて、あちこちで発生した語りがそのまま成長して茂みになる。その茂みに入ることは一つの空間的な体験である。岡田彩希子の作品の中で、重なり合って見える景色は、ランドスケープでもサウンドスケープでもない。岡田は、熱という観念に点火して人の空間体験を広げる。ここにあるのは、作家の言う<自と他の境にある別の景色>、カバン語を用いて言えば、飛び火する観念によって出現したディスコースケープである。